物部長順の生い立ち

1.秋田物部氏のルーツと私

樹齢四百年の杉の大木の杜に鎮座する秋田県下で有数の御宮、唐松神社の社務所が私の生家、7人兄弟の6番目に生まれる。家督は弟の長仁が64代目の相続人で唐松神社の宮司を司る。

(1)唐松神社参道

唐松神社参道

64代目宮司(弟 長仁)

64代目宮司(弟 長仁)

物部文書(物部氏の伝承、古史や記録、家系図等の書)には物部氏の先祖は、天照大神の孫、鐃速日命(にぎはやせのみこと)と記され天神の父から、十種の端宝(とくさのみずたから)を授けられ河内国の哮峯(たけるがのみね)に降臨して国を開いたとある。

物部氏は朝鮮半島を経由し日本機内に外来文化を持込んだ征服者であったが、高度な文明を持つ誇り高い氏族で金や銅等の鉱山技術とその製錬技術に優れ、又馬の飼育等も練達していた。鐃速日命は後にヤマト物部王国の神事を継承する事を条件に神武天皇に王権を禅譲(王位を譲る)し、以後天皇家に仕える。

西暦644年中央政界で大連(大和朝廷の最高執政官)として君臨していた物部守屋は新興勢力の蘇我馬子の奸計で夜襲にあい一族は殲滅されたとあるが守屋の一子那加世(秋田物部氏の初代)は下臣の捕鳥男速(とっとりのおはや)に連れられて各所に隠れ住みながら落ち延びる。982年に第23代物部長文が現在の地、秋田県大仙市協和境に定住する。

唐松神社の語源は物部文書に神功皇后の三韓征伐(新羅、百済、高句麗)の偉業を称え韓服(からまつ)神社と称したと記録されている、又皇后の出陣に際し戦勝を祈願し御懐妊していた皇后に物部の膽昨連(いくいのむらじ)が御腹帯を作り付けさせた。後の応神天皇が無事お生まれになり、この御腹帯が唐松神社の御神体として授子安産の守り神として祀られている。物部文書には1509年迄は韓服神社と記されるが、以後は唐松の山の杜の中に有った為か唐松神社と呼ばれる。

天日宮(あまつひのみや)

天日宮(あまつひのみや)

秋田物部家には国学の4大人の一人、平田篤胤(江戸後期の人 秋田県出身)が唱える漢字の伝来以前に存在したと言う、謎の神代文字(物部文字)48字が古来より伝承されている。

物部長順の生家

私の生家